さんがつの独り言ブログ

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ゆらぎ

先日、Twitterでお付き合いさせて頂いている方のサイトへお邪魔しました。

お邪魔・・・というと閲覧というニュアンスを私は持っているのですが、今回は、お誘いを受けてその方の企画に参加し、そのやり取りをその方のサイトに掲載して頂いたという事です。

まぁ、簡単に書くとその方が出した複数の質問に私が答えて、紹介や感想をその方のサイトに掲載して頂いた訳です。


で、何でこんな事をわざわざ言うのか?というと、正直「めっちゃ楽しかった」のです。


私のブログ歴は、ほんの1年と数か月程度です。
ですので、世の中のサイトがどういうものか?
どんな意味をもたらすのか?
そんな風に殆どわからないままぼんやりとしたものから始めて、それでアドセンスを始めました。


アドセンスは審査通過に際し、ある程度の基準の様なものがあります。
そしてそれは流動的なもので、私が見知ったこの1年程は、情報に自体に価値のある「お役立ちサイト」が好まれている様に感じています。

つまり、既に多く存在する「まとめ系」や「日記系」のサイトがアドセンスの掲載しているからといって、このジャンルで審査通過というのは、それなりに工夫をしないと厳しいと感じています。


で、話を戻します。
冒頭のやり取りです。

正直、私の質問の答えなんて誰の役にも立ちません。要するにネット情報としては「ごみ」みたいなもんです。

でもね。

楽しかったんです。
そしてそれを読んだ方も「楽しかった」とおっしゃってくれました。

要するにゴミみたいな情報でも、人に何かしら影響を与えたのです。
(ゴミみたいな情報というのは、私のアンサーで、その方のサイトはそれはもう、とても面白いサイトです。誤解の無いようにお願いします。)

ネットやTwitterでも、人と人がかかわると、何かしらお互いに影響を与えるのですね。


その方とは違うのですが、ある方が人間の感情や、相違の様な部分の表現を「ゆらぎ」とおっしゃっていました。
あぁ、なるほどなぁです。

今回も、その「ゆらぎ」が干渉しあって、波紋の様な振動の様な・・・。
要するに、お互いの感覚でしか出せないモノが生まれたのです。


そしてアドセンスの承認では、「他のコンテンツには無いオリジナルの要素が多い方がよい」なんて言葉もあります。

つまりお役立ち情報でなくても、あまり意味なさない様な情報でも、そこから生まれたゆらぎは、他の誰にも出せない、オリジナルの何かを生み出せだと思ったのです。

 

話を少しアドセンスの部分に戻しますが、「アドセンス=ネットで収益」という解釈が多いです。
しかし側面として、「良いサイトを運営している方に報酬があってもよい」とも取れます。


これもある方の受け売りですが、グーグルは、エコシステムを構築したいそうです。

「ネット界に有益な情報を発信しているサイト主に収益を還元」です。

有益なサイトを見た閲覧者は、行動を起こす。
起こされた行動によって得た利益をサイト主へ還元する。
サイト主は還元された利益(収益)を使って、よりよいサイトへ改善する。


お役立ちサイトがアドセンスに好まれるのは、こういう面を満たしている部分が大きいとも思います。


ただしこれは、「サイト→閲覧者」という一方通行の流れの様にも感じます。
ここでは、互いのゆらぎは少なく、干渉も多くは発生しません。


そしてこのお役立ちサイトの氾濫は、ネット界において、サイトの画一化という恐ろしい側面にも通じます。

本来、ネットは多様で、人の感性も多様です。

今回の経験は、「約に立たないもの、価値が無さそうでも誰かが楽しいと思えるもの」そういう情報やサイトも必要なのでは?とも思いました。


そうです、役に立たないと思われるものでも、他の誰にも出せない何かを生み出せだる可能性があるのです。

 

少し話がずれますが、アリの巣から、働きアリと怠けるアリを分けて、それぞれ別の巣にして機能させるとします。

働きアリだらけの巣は、本来、働き者しかいないハズです。
しかし、この巣の中でも働くアリと怠けるアリが出るそうです。

反対に怠け者しかいないアリの巣でも、働き者が発生するそうです。

つまり、現実においても、世の中に役に立たないものでも何かの役割があるのです。
そしてそれは必要なものなのです。

もしかたら、これが余白で余裕なのかもしれません。
だから人間は「ゆらぐ」事が出来るのかもしれません。

そしてこのゆらぎは干渉しあって、何かを生み出す力があるのです。


役立たないモノが何かを生むかもしれない。
余白や余裕は楽しいもなのかもしれない。
それはネットの中でも同じなのかもしれない。


だから、現実の世界でも、ネットの中でも揺らいで迷って悩んでもいいんじゃないか?って思います。


個人的に物質としてのモノを不要に持つ事は好きではありません。
理由は、そこに自分が囚われたくないからです。


しかし、今回の事を通してモノと人は違う・・・と改めて感じました。

余白を落した先にあるものが、本当に良いとは限らないかもしれない。
大きく膨らんで、どうにもならない方が良いのかもしれない・・・。

そんな事を感じました。


どちらにせよ、人は変わります。
変らない人はいません。

そして余白や余裕が大きいほど人はゆらぎ、変わる可能性があるのだと思いました。


干渉しあって、ゆらいで変わる。

私はこれを人の進化でもあるし、成長だとも感じました。

 


・・・

はい、なんてね。